いじめは、誰が誰に対して行おうと卑しく情けない行為である。
他人を揶揄し、貶め、無視し、時には暴力を振るう……。このような非道は、人の道に立つ者として到底許されるものではない。
実際、「いじめ」=「悪いこと」という価値観は広く人々に受け入れられていて、それ故に、いじめの是非を問うような議論はそもそも行われない。
しかし、世間でいじめの話題が取り上げられると、必ずといっていいほど「いじめられる方にも原因がある」という声がどこからともなく聞こえてくる。
そうした声は、「悪いこと」が前提とされているいじめを正当化するかのような見解を生じさせ、私たちの中にある当然の良心に幾ばくかの混乱をもたらす。
「あいつは〇〇だからいじめられても仕方がない」
「いじめられて当然、とまではいかないが、原因を作ったのは被害者自身ではないか」
テレビのコメンテーターや物知り顔の識者がこのような言葉を吐き出す度、私は首が傾いていくのを止められない。
なぜこの人たちは、いじめの加害者ではなく、保護されるべき被害者に非があるかのような物言いをするのか。そしてなぜ、それに同調する人々が現れるのか。
今回は、このような「なぜ人々が、いじめの加害者ではなく被害者を非難することがあるのか」という謎について迫っていきたい。
目次
いじめは、いじめる方が悪いに決まっている
先にはっきりと述べておくが、
「いじめは、いじめる方に100%非がある」。
どんな事情があろうと、人を貶めてたり傷つけたりしてもいい明確な理由などこの世に存在しないからだ。
にもかかわらず、「いじめられる被害者にも悪いところがある」という人々が世の中には少なからずいる。
それも、誰もが「いじめは悪いことだ」と信じて疑わない世の中においてだ。
この矛盾めいた現象を解決するカギは、「世界は公平である」と信じている人の心にある。
話の核心に迫るために、まずはこのことについて解説をしていこう。
公平世界仮説
世の中には理不尽が溢れている。
私たちの周りには理由なき暴力や不幸が跋扈しており、時として、予告もなく我々に襲い掛かってくる。
しかし、こうした根拠のない不条理を私たちは認めようとしない。心が受け入れられないのだ。
「私は3分後に、故なき不幸に見舞われるかもしれない」などとと常に思い続けながら生きることは、心にとって多大なストレスとなってしまう。
そのため、人は世の中に「ある物語」を想定することで、そうした心的不安を解消している。
それが、「この世は勧善懲悪のルールに則った公正な世界である」という空想物語だ。
言い換えれば、「良い行いをすれば報われ、悪い行いをすれば罰せられる」という因果応報のストーリーのことである。
「桃太郎」や「アンパンマン」たちが暮らす、「正しき者が得をする世界」を思い浮かべてもらえれば分かりやすいだろう。
この架空の世界では、悪さをすればバチが当たるが、善行に励む者は悲劇に見舞われることはない。
それがこの世界の摂理であり、曲がることの無い絶対のルールなのだ。
多くの人は、この「公正な世界」こそが自分の住む世界なのだと信じている。
そうすることで、「悪いことをしていない自分には、理不尽が襲い来ることはない」と心の安定を得ているのである。
このように、「この世は、正義が報われ悪が罰せられる『公正な世界』である」と考える心の作用を、心理学用語で「公平世界仮説」という。
「公正世界仮説」のメリット
この世が「公正な世界」であると信じることには一定のメリットがある。
まず、この「公平世界仮説」は私たちの社会秩序の維持に役立っている。
なぜなら、前述した勧善懲悪のストーリーが、私たちの善行を促進し、同時に悪行を抑制するからだ。
「お天道様は見ているぞ」 「良い子のところにサンタさんはくるからね」 「悪い子はいねがー!」
これらの言葉は、全て「公平世界仮説」に則って作られたものだと言えよう。
私たちは昔から「公平世界仮説」を頭に刷り込まれて育ってきており、それは犯罪の抑制やモラルの向上など、人の社会活動の円滑化に役立っている。
また、日本人に特に顕著な「努力や苦労を厭わない価値観」というものも「公平世界仮説」から生まれている。
頑張れば頑張った分だけ必ず報われるのが、私たちが思い描く「公正な世界」のあるべき姿だからだ。
辛くても苦しくても、必死に耐えて乗り越えればきっと報われる。そう信じる心が、私たちに苦難を乗り越える力を与えてくれるのである。
このように、「公平世界仮説」は私たちの心から不安を拭い去ってくれると共に、人間の社会的活動を促進する「価値ある集団妄想」なのである。
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公平世界仮説の矛盾
だが、「公正な世界」はあくまでも私たちが夢見る理想の世界だ。
私たちが住むこの現実の世界には、いつも変わらず理由なき不幸が溢れている。
この理想と現実の乖離から、「公正世界仮説」に矛盾が生じる瞬間がある。
それが、善人が理由なき不幸に見舞われた時だ。
そして、この矛盾を目の前にした時、人はなんとも恐ろしい行動に出るのである。
崩壊する「公正な世界」
例えば、親切で優しく、仕事もできて、しかし奢り高ぶることもない、そんな誰から見ても聖人のような人間(聖さん)がいたとしよう。
彼は皆から慕われて幸せな人生を送っていたが、ある日、散歩中の交通事故によって突然命を落としてしまった。
原因は車の運転手の信号無視。不注意が引き起こした悲しき事故である。
人々は皆悲しみに暮れたが、ある人がぽつりとこう呟いた。
「きっとぼーっとしていたのだろう。」
するとそれを皮切りに、人々は突然、聖さんが事故にあったのには自業自得な部分があると、彼の落ち度を探し始めたのである。
しかもその内容は、
「本当に信号は青だったの?」
「歩きスマホでもしてたんじゃないの」
「夜に散歩なんか行くから」
「ワーカーホリック気味だったし、ろくに寝てなかったんじゃ」
等と、根拠のない憶測やこじ付けばかり。
最後には「きっと前世で悪いことしてたんだよ」などと言いだす始末である。
事故は運転手の信号無視が原因で起こったのであり、聖さんに非が無いことは明らかであった。
にもかかわらず、人々は意地でも彼に事故の原因を見出そうと躍起になったのである。
このような不可解な現象が起きたのには、『公正世界仮説』によって歪められた人々の認知が深く関係している。
既に何度も述べたことだが、「公平世界仮説」において語られる世界においては、「良い行いをすれば報われ、悪い行いをすれば罰せられる」という絶対的な基準が存在している。
しかしそれは、裏を返せば「善人に不幸が訪れてはならず、悪人に幸せが訪れてはならない」ということでもあるのだ。
これが破綻すれば、それすなわち「公平世界仮説」の崩壊を意味する。それ故に、このルールを破る存在を人々は認めようとしない。
この考え方を前提に考えると、「善人なのに不幸にあってしまった聖さん」という存在は、「公平世界仮説」を信じる人々にとって非常に都合が悪い。
彼らの生きる世界では、善人が不幸に見舞われるなどあってはならないことからだ。
そこで、人々は何とか聖さんに「不幸に見舞われるべき理由」をこじつけて、無理やりに悪人に仕立て上げようとする。
加害者ではなく、善人たる被害者の存在を否定することで「公正世界仮説」を維持しようとするのである。
このように、「公正世界仮説」を信じ続けるために被害者を不当に非難することを「被害者非難」と呼ぶ。
非難される被害者たち
私たちにの身近に存在する被害者非難の例としては
- そんなに短いスカートを履いているから痴漢にあったのだ
- お墓参りに行ってないから病気になったんだ
- 夜中に出歩くから襲われたんだ
などが挙げられる
どれも結果とは直接関係のない無理やりな理由付けである。
そもそも、事故や不幸に見舞われても良い正当な理由などこの世には存在しないはずだ。
だが、「公正世界仮説」を守ることに必死な人々の頭にそうした考えはない。
むちゃくちゃな理屈であろうと、被害者の尊厳を踏みにじることになろうとお構いなく、「公正な世界」を脅かすものを排除しようとするのである。
「悪人が地獄に落ちる」のではない。「地獄に落ちる者が悪人」なのだ。彼らは本気でそう信じている。
そしてこの被害者非難こそが、「いじめられる方も悪い」と言う人が現れる理由なのだ。
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いじめられる人間は、いじめられるべき人間?
いじめられて然るべき人間など、この世には存在しない。
しかし実際の世の中には、何も悪いことなどしていないのに、悪質ないじめによる被害を受けている人々が数多く存在する。
ここに「公平世界仮説」の矛盾が生じ、それは人々の信じる「公正な世界』の存在を脅かす。
すると、人々は「公平世界仮説」を維持しようと次のように考え出す。
「なにも悪いことをしていない人間が、いじめなんて辛い目に合うはずがない」
「そうでなければ、いつか私も同じように、ある日突然いじめにあってしまうではないか。」
「そんなことは、この『公正な世界』では許されない。あっていいはずがない」
「そうだ、いじめられている人間には、きっとそうなるべき理由があったに違いない」
このように思う心が、「いじめられる方も悪い」といういじめ被害者への不当な非難、いじめの肯定へと繋がるのである。
人々は、「公平な世界」を守るための生贄として、いじめ被害者を差し出しているのだ。
しかし、そんなことでいじめが正当化されるなんてことはもちろんない。あってはならない。
「いじめられても仕方ない理由」を一つでも認めてしまえば、それは世の中のあらゆる場所でそれを理由としたいじめを認めてしまうことになる。
それはもはや、社会ぐるみで「差別」や「迫害」を行うことと同じだ。
そもそも、被害者非難によってこじつけられる「いじめられてもいい理由」に根拠などない。
一方的な憶測や、最終的に「前世の悪行」まで持ち出して作り上げる理由だ。そこには正当性のかけらもありはしない。
にもかかわらず、私たちはそんな稚拙な理由のこじ付けによって「公正な世界」を守ったと思い込み、そして安堵するのだ。
「あぁ、今日も世界は『公正』に回っている」などと言いながら。
まったく愚かしいことである。
まとめ : 世界は理不尽で溢れている
私たちは皆、この世は「公平な世界」であるという幻想に取り憑かれている。
そして、その架空の世界を守るために、理不尽な不幸を被った人々を貶めているのである。
「いじめられる方が悪い」等の被害者非難につながるこうした心の働きは、恐ろしいほどに倒錯的だ。
「良い行いをすれば報われ、悪い行いをすれば罰せられる」という命題を、例外の排除によって強制的に成り立たせようとしているのだから。
そこで求められているのは過酷な現実などではない。人の願望によって作り上げられた、実在しない幻の理想郷だ。
誰もが、「公正な世界の意志」によって不当な扱いを受けることなく生きていける・・・・・・そんな頭の中の「シャングリ・ラ」を守るために、自らが他人に不当な非難を浴びせているのである。
またこうした傾向は、「公平世界仮説」を強く信じている人ほど強くなることが知られている。
なんともまぁ、皮肉なことだ。
繰り返しになるが、世界は理不尽に溢れている。
それは、私たちが認めようが認めまいが変わらない、歴然とした事実である。
そんな世の中で生きていくために必要なことは、襲い来る不条理に立ち向かえる力をつけることだ。
「世界は公正に回っているんだ」と思い込むだけでは、何の解決にもならない。それは都合の良い「まやかし」であり、現実逃避でしかないからだ。
その上、幻想の世界を維持するために不幸に遭った人々を貶めているようでは、もはや救いも何もあったものではない。
理不尽な世界を認めまいと被害者を非難するその人自身が、もはや世の中の理不尽の一部と化している。
「いじめられる方も悪い」と言うすべての愚か者達へ告げる。
弱者を貶めるような、不当な非難はもうやめよう。
「公正な世界」など、この世にありはしないのだから。
※「公平世界仮説」についてもっと知りたい方は、こちらの記事をどうぞ。

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