「困っている人がいたら、助けてあげましょう」
子供のころ、幼稚園や小学校で先生からよく聞かされていた言葉だと思います。
「みんなは一人のために、一人はみんなのために」お互いが助け合っていく社会。素敵ですね。
しかし、現実にはこの「困っている人を見つけたら助ける」をさらっと行える人はなかなかいません。
以前にこのような記事を書きましたが、この中で述べているように、人は周囲に溢れ迫りくる情報から身を守ろうと必要なもの以外を無視する傾向があります。
※詳しくはこちら

そのような状態においては、たとえ困っている人が目に入っていても、「自分には関係がないことだ」と素通りしてしまう人がとても多いのです。
誰しもやっかいごとには巻き込まれたくないですからね。分からないことではありません
しかし、そこにかけがえのない「人の命」がかかってくるとしたらどうでしょう。
死の危機に瀕する人を目の前にしたとき、あなたは迷わず助けに向かえますか?
今回は、傍観者の危機性を世に問いただした有名な事件「キティ・ジェノヴィーズ事件」を紹介。
そこから「なぜ人は傍観者の立場に甘んじてしまうのか」という理由について考えていきたいと思います。
(前回の記事を読んでいただけるとより深く理解できると思いますので、よろしければそちらもご覧ください!)
目次
キティ・ジェノヴィーズ事件

事件の概要
キティ・ジェノヴィーズ事件は、1964年の3月13日にアメリカのニューヨークで起きた殺人事件で、キティ・ジェノヴィーズというのは被害者の女性の名前です。
この事件は、その内容の異様さから当時マスコミを通して大きく騒がれ、都会の人間の冷淡さを示す事件として現代まで広く知られるようになりました。
事件の概要はこうです。
1964年 3月13日の夜、キティは仕事を終え、車で帰宅。住んでいるアパートに隣接する駐車場に車を止め、30mほど先のアパートの入り口に向かった。
しかしその途中、怪しい男に突然背中をナイフで刺された。
彼女は悲鳴を上げた。深夜だったこともあり、住宅街には彼女の悲鳴が響き渡り、近くのアパートのいくつもの窓に明かりが灯った。そのうちのいくつかの人が窓を開けてキティたちのほうを見たが、声を上げたのはそのうちの1人であるロバート・モーザーのみだった。
彼は「彼女を放せ!」と叫んだ。これを聞いた男はキティから離れていき、深夜の住宅街にはキティのすすり泣く声が響くのみとなった。近隣の住民は次々と窓の明かりを消した。この時点で、警察に電話をした者は誰一人としていなかった。
キティは重傷を負いながらも自分の部屋にたどり着こうと再びアパートに向かった。しかし、男が再びやってきて、またも彼女をナイフで刺した。彼女は何度も叫び、近くの窓にも再度明かりが灯ったが、それでも通報した人間は誰一人としていなかった。男は彼女に彼女の首にナイフを刺し深い傷を負わせると、去っていった。
だが男はもう一度やってきて、瀕死の彼女に暴行を加えると、財布から金を奪って、今度こそ本当に現場から立ち去った。
初めて警察に電話がいったのは、すべてが終わった後、事件発生から30分以上たってからだった。電話から3分後、警察が現場に到着した。なんと彼女にはまだ息があったが、17か所もナイフで刺されており、救急車で病院に運ばれている最中に死亡した。
以上が事件の概要となります。
駐車場から家までのわずか30mの間で起きた事件というのがまず恐ろしいですよね。
そしてさらに怖いのが、キティの叫び声に気付いた人は多くいたのにもかかわらず、最初に声を上げたロバート以外は、通報どころか終始無関心を決め込んでいたということです。
そのせいで、犯人は被害者のもとに合計3度もやってきて危害を加え、尊い命が失われることになっれしまいました。
なぜ彼女を助ける人がいなかったのか
事件の概要を知って、このように思われる方も多いかと思います。
当時でもそれは同じで、事件後にはニューヨーク・タイムス紙で『38人の目撃者、警察に通報せず』という見出しの記事が掲載されました。
38という数字は、事件当時キティの悲鳴に気付きながらも無視した人々を非難するものであると同時に、どうしてこんな事件が起きてしまったのかという驚きを含むものでした。
なぜそんなにも多くの人が、凄惨な殺人現場の『傍観者』になってしまったのかと。
しかし、その38人の人々は、事件当時皆こう思っていたのです。
「自分が助けなくても、きっと誰かが助けるだろう」
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傍観者効果(bystander effect)

この事件をきっかけに、当時の社会心理学者達から「傍観者効果(bystander effect)」という集団心理が提唱されました。
これは、
自分のほかに誰かがいる場合、人は率先して行動を起こさなくなる
という心理であり、今回の事件における38人の傍観者たちの行動心理を説明するものでした。
また、傍観者効果は、以下の3つの心理メカニズムから起こるものだとされています。
2、責任分散 ……… 他者と同調することで責任や非難が分散されると考える
3、聴衆抑制 ……… 行動を起こした時、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる
事件の内容と照らし合わせ、一つずつ詳しく見ていきましょう。
多元的無知
多元的無知とは、そばに居合わせた人間同士が互いに様子見をして動かないことから「だれも騒いでないし、急を要する事態ではないな」と判断してしまう心の動きです。
今回の事件の場合、最初のキティの叫び声には多くの人が気づきましたが、互いに様子をうかがって素早く行動に移した人がいなかったことがこれに当てはまります。
お互いがお互いの動きを待つ時間が長くなると、『動く人がいない=大したことではない』と人は思ってしまうのですね。
責任分散
これが、「自分が助けなくても誰かが助けるだろう」の根本となる心理です。
自分以外の誰かがそばにいると、物事に対する自分の責任が小さくなる=分散されると思ってしまう心の動きを指します。
このことから、38人(実際にはもっと多かったとも)もの傍観者がいたこの事件においては、個人が「なんとかしなきゃ、助けなきゃ」と思う気持ちや責任感はだいぶ小さくなってしまっていたのだと予測できます。
だからこそ、キティの叫び声に気付いていても、誰も動かなかったのです。
聴衆抑制
評価懸念とも。
これは、「もし何か行動を起こして、失敗したり、そのことで非難されたりしたくない」と不安に思うことから行動が抑制されてしまう心理です。
例えば、このような場面を想像してみてください。
~満員電車にて~
そうして、彼は握り拳を作りながら、降車駅まで席に座り続けるました。
~降車駅にて~
本当はとても優しい青年なのに、様々な評価懸念から行動できなかったことで、『思いやりのない若者』認定されてしまいました。
このように、自分の行動に対する外部の評価を恐れるあまり動けなくなってしまう心理が聴衆抑制です。
今回の事件においても、ようやく警察に通報した最初の男性でさえ、その直前には友人に「自分はどうしたらよいだろうか」と相談の電話をかけていたといいます。
「いや早く通報しろよ!!」と突っ込みたくなりますが……。
驚くべきことに、人は他人が命の危機に瀕しているときでさえ、自分の評価を気にしてしまう生き物なのです。
傍観者が多いほど動けなくなる
以上3つの要素によって引き起こされる傍観者効果ですが、その場に居合わせた人数が多いほど強く働くことが知られています。
ある研究では、居合わせた人数が2人の時にはすべての人が援助行動を行ったが、それが6人に増えると、約38%の人が行動を起こさなかったという結果が出ています。
キティ・ジェノヴィーズ事件においては、38人(以上)の人が事件に気付き、また、お互いが事件に気付いていることを知っていました。
それゆえに「誰かが助けるだろうから、自分はいいだろう」という思いが強く働いてしまったのですね。
以上、傍観者効果の3つの要因を考察してきました。
これらが相互的に働いて、38人の隣人たちは悲しき『死の傍観者』になってしまったのですね。
傍観者効果による集団的無関心。これが今回の事件の真相というわけです。
まとめ
今回は、傍観者効果をキティ・ジェノヴィーズ事件を通して見てきました。
「自分がやらなくても誰かがやるだろう」というのは、存在しない誰かに責任を丸投げする行為です。
決して感心されるような行いではありません。
しかし、みんなが気づいているのに終わらない学校でのいじめや、会社でのパワハラ、セクハラ、町中にポイ捨てされたまま放置されるゴミなど、傍観者効果は私たちの生活のいたるところで見られます。望まずとも加担してしまっていることも少なくないでしょう。
こうした行為を傍から非難するのは簡単です。
しかし、『いざ自分が同じ立場になったら』……を考えると、なかなか一方的に責められるものでもありません。
ただ、「こういう時、心はこういう風にとらえがちだ」ということを知っていると、いざという時行動するのが楽になりますし、そこで動かなかった人たちをむやみに非難することもなくなります。
「だってしょうがないですよ、人間ってそういうものですもん」と思えますからね。
キティ・ジェノバーズ事件においてもそれは同様で、近隣の38人の人々が一概に悪いとは到底言えません。
なにせ、人間の心の動き方、働き方がそのようになっているのですから。
大事なのは、それを知っていてなお、どうするかということです。
ここからは私事ですが……
先日銭湯に行ったとき、露天風呂で倒れてしまったご老人がいました。突発的な貧血で、倒れたのは固い岩場の上でした。
私は真っ先に駆け寄れましたが、他には誰一人近寄ってきませんでした。
大した怪我もなかったのですが、鼻から少し出血されており、そばにあった休憩所で横になってもらいました。
ご老人は「申し訳ない……」となんどもつぶやきながらも、最後に「ありがとう」と言ってくださいました。
そんな中で強く思ったのは、大変月並みですが
心理学や、人の心の周辺事情を勉強していてよかったなぁということです。
心の諸事情を知っていることで、自分の心の抵抗や動性をある程度コントロールできます。
今回このご老人に駆け寄れたのは、それによるところが大きいと感じていますからね。
「知っている」は、「行動できる」に繋がることの大切さをひしひしと感じる瞬間でもありました。
心を知ることは、人間を知ることです。
そして人を知ることは、互いに手を取り合う社会を実現するために必要なことでもあります。
私は、人の心のことをもっともっと多くの人に発信して、知ってもらって、1人1人のココロの距離がもっと近くなる世の中にしていきたいと思ってこのブログを立ち上げました。
その先には、あの銭湯にいた人全員が、すぐさま倒れたご老人に駆け寄ってきてくれるような未来を溢れさせたいという夢もあります。
その夢に近づくため、そして、子供の頃おじいさんに席を譲れなかった自分に胸を張れるよう、これからも精進していきたいです。
ブログ更新頑張るぞ!
以上、シロネコ書房でした。
ではでは、またまた!
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