「都会の人間は冷たい、自己中だ」
地方に住む方々から、たまにこのような意見を聞きます。
私も都市部に住んでいますが、確かに、道で誰かとすれ違っても目線を合わせることはほぼありませんし、隣近所の方でさえも、基本的には挨拶を交わす程度の関係です。
このような有様を見て、地方の人々が都市部の人間を「冷たい人たちだ」と評する気持ちも分からないではありません。しかし実際は、都会だろうが田舎だろうが、本当に冷たい人もいれば、人情に厚い温かい人たちもいます。
ではなぜ、都会の人間はより「冷たい」というイメージを持たれやすいのでしょうか。
さてここで、都会人の冷酷さを端的に表すエピソードを1つ、アシスタント達と一緒に演じてみたいと思います。
~~~~本題前寸劇~~~~
【大都会東京】
~~~~寸劇終了~~~~
初めての都会に胸躍らせていたイサコにとっては、衝撃的な上京劇となりましたね。
ここで(悪役を引き受けてくれた)トトのことを、ひどいやつ!と思う人もいるでしょうが、はたして同じような状況に立たされたとき、あなたは進んで倒れている人を助けに向かえるでしょうか。
さぁ、ここから本題です。
都会人が冷淡だと言われる理由
都会における「情報過多」
都会の人々が冷たいと評される原因の一つとして、情報の氾濫が挙げられます。
都会では、絶えず何百何千という人々が通りを行き交い、立ち並ぶ多くのお店が新商品をショーウィンドウでアピールしています。乱立するビルには流行のアイドルや俳優、アニメキャラクターを用いた広告が大小さまざま並び、人気のポップミュージックが昼夜問わず人々の耳に飛び込んできます。
情報社会と言われて久しいですが、とりわけ都会では、溢れんばかりの情報が常に人々に押し寄せているのです。
そこでは、人は押し寄せる情報を処理しきれず、精神的にまいってしまいます。
そうした状況を、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムは過剰負荷環境と呼びました。
そしてこの過剰負荷環境こそが、都会人の冷酷さの理由を紐解くキーワードなのです。
過剰負荷環境
過剰負荷環境にある人間は、押し寄せる情報に対し、以下の4つの方法を用いて対処しようとします。
- 短時間処理……情報を可能な限り短時間で処理しようとする
- 情報の排除……自分にとって有益でない情報を排除する
- 責任回避………問題が起きても、自分に責任が及ばないように他人に擦り付けて回避する
- 他者の利用……他者とコミュニケーションをとる場合、直接にではなく、他人やその他間接的な手段を介する
このように、過剰負荷環境においては、人は溢れる情報の中から必要な物だけを取り入れ、自分に必要のないものは無視する……といった行動をとるようになります。
対人関係においても、自分と関係のない人とは最低限のコミュニケーションしか行わず、必要に迫られない限り自ら関わろうとはしません。
寸劇でのトトがそのいい例でしょう。「自分に関係のないこと(特に面倒事)には極力関わりたくない」という心理が、イサコの助けを求める声を無視したのです。
このような過剰負荷環境への対処法としての「無関心」は、氾濫し迫りくる情報から身を守るための、いわば「防衛反応」と考えることができます。
絶えず流れ込んでくる情報の流入口を意図的に絞ることで、脳がオーバーフローしないようにする合理的な手段とも言えるでしょう。
しかし、都会外の人々はそのような事態を知る由もありませんから、都会人の「過剰負荷環境への対処の結果」としての「無関心」を目の当たりにしてしまうと、寸劇のイサコ同様に、「冷たい、ひどい人たちだ」という印象を抱いてしまうのです。
これが、「都会の人間は冷たい、自己中だ」と言われる理由です。
都会での無関心は むしろマナー?
カナダの社会学者であるゴフマンは、過剰負荷環境における上記のような行動概念を「儀礼的無関心」(または「市民的無関心」)と名付けています。
過剰負荷環境において、自分とは無関係な他者とのコミュニケーションは、最低限に抑えられるか、もしくは回避されます。
それは、同じ都会人同士では共通の認識であって、もはや「守られるべき暗黙のルール」として定着しています。
その暗黙のルールを守るために、人々はあえて儀礼的にふるまい、お互いに無関心を装う……と、これが儀礼的無関心です。
- 近所のスーパーで買い物中に他人とぶつかりそうになっても、お互いの顔を見ず会釈だけしてすれ違う。
- 道端で人とたまたま目が合っても、すぐにそらして、何事もなかったかのようにすれ違う。
などがこれに該当します。
これが破られるとどうなるか、ですが、例えば
といった場面を想像してみてください。
相当に奇妙で、失礼で、恐怖さえも覚えるかと思います。
都会人の冷たさを表すはずの無関心は、実はこのように、私達の公共性を保つものとして機能してもいるのです。
まとめ
さて今回は、都会の人間は本当に冷たいのか、というテーマで書いてきました。
都会人が冷たいと思われるのは、他人への無関心さ、が主な原因ですが、それは情報溢れる過剰負荷環境に対する「対処としての無関心」でした。
そして、都会においては、無関心であることはもはや暗黙のルール、マナーとして、公共性の保持に役立っていることがわかりました。
しかし、そんな「無関心」にも欠点はあります。
アメリカで起きた「キティ・ジェノバ―ス事件」などがその典型例であり、都会人の「無関心」が引き起こした痛ましい事件です。

寸劇でいえば、イサコが助けようとした人が本当に命の危機に直面していた場合などがこれと同様のケースになるでしょう。
無関心さは社会において私達1人1人の距離感を保つ大事な要素ですが、やはり人間、お互いに助け合う心を忘れてはいけません。
寸劇のような状況に出会ったとき、スマホ、もしくはPCの前でこの記事を読んでくださっているあなた、そう、あなたですよ!……が、勇気をもって困っている人に手を差し伸べられることを祈って、今回はここでお開き!
ではで、またまた!
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