皆さんこんにちは!シロネコ書房(@shironeko_shobo)です。
皆さんも、このようなことを思った経験が1度や2度あるのではないでしょうか。
しかしちょっと待ってください。それ、本音ですか?
本当は、めんどくさい上に味もそこそこだったんじゃないですか?
本当は、辛いだけで楽しくなんて全然ない仕事なんじゃないですか?
なぜそんな酷いことを聞くかって、そりゃあ……
人間は、己の行動や選択の全てに、自分にとって都合のよい解釈を与えて正当化してしまうものだからです。
そう、それがたとえれが真実を捻じ曲げたものであったとしても……。
目次
認知的不協和
基本的に、人は自分の行動や感情に矛盾が無いように努める生き物です。
「死ぬほど気持ち悪いと思いながら、毎日欠かさずミミズ食べてます!」なんて人はいませんよね。極端な例えですが、そういうことです。
しかし、私たちはしばしば、自分の持つ意見や行動に矛盾したり対立したりする物事と接することがあります。
例えば、タバコを吸っている人の目の前に「喫煙は肺ガンのリスクを高め、あなたの寿命を縮めます!」といったポスターが現れたときなどです。
自分の行動を非難・否定されているわけですからね。吸っている当人からしたら不都合極まりない状況です。
このような状態は、認知的不協和と呼ばれ、人に不安や緊張など心理的に不快な状態を生じさせます。
そしてこの認知的不協和が生じると、人はどうにかしてその不快感を低減・解消しようとしするのです。
フェスティンガーの「認知的不協和理論」
この「認知的不協和」についての基本理論を説いたのが、アメリカの心理学者、フェスティンガー(1957)です。
彼の「認知的不協和理論」の基本仮説には
A、不協和の存在は心理的に不快であるから、この不協和を低減し協和を獲得することを試みるように人を動機づける。
B、不協和が存在している時には、その低減を試みるだけでなく、さらに不協和を増大させると思われる状況や情報を進んで回避しようとする。
そして、不協和は
①行動に関する認知要素を変える
②環境に関する認知要素を変える
③新しい認知要素を付加する
という方法で低減される。
と述べられています。
ううむ、ちょっとわかりにくいですね……
より分かりやすく理解するために、ここに先ほど挙げたタバコの例を当てはめて考えてみましょう。
この理論によれば、ポスターを見つけた喫煙者は不協和を解消するために次のような行動をとることが予測されます。
・そろそろ健康にも気をつけないといけないな……と考え禁煙する、喫煙量を減らす(①に該当)
・自分はそれほどヘビースモーカーでもない、もっと吸ってる人もいる、と考えてこれまで通り吸い続ける(②に該当)
・喫煙と肺がんの関係性のデータが明確ではない!間違いだ!といって信じない(②に該当)
・喫煙者でも健康な人は多いから、と耳を貸さない(②に該当)
・そうはいっても、食後の喫煙は最高だ。私の生きがいだ。人の趣味嗜好に余計な口出しをするな!と考える(③に該当)
・見なかったことにする(Bに該当)
つまりは、人は自分にとって都合のよい情報や解釈を用いて自分の行動を正当化することで、不協和から生じる不快感を解消しようとするということなのです。
また、不協和を生じさせるような情報をすすんで回避するようになります。そうすることで、己の正当性を確保しようとするのです。
これが、「認知的不協和理論」が示す中心的な部分になります。
「手のひら返し」も正しいんだよ!
ここで面白いのは、喫煙に対するこれまでの認識を変える選択肢である「禁煙」を選ぶと、今度はそれを正当化するように自分の態度を一変させるということです。
例えば、喫煙者が禁煙に乗り出した場合に、その行動の正当性をさらに高めるために、急に周囲に「禁煙は良いぞ~」などと言うようになったりします。
さらに上を行くと「まだ喫煙で消耗してるの?」なんて言い出したりも……。
そうですね(笑)。そしてそういう人ほど、農薬を使った野菜を食べてる人を叩いたり、もので溢れる生活を送る人たちを批判したりするんですよね。
実はこうしたことも、認知的不協和に陥った人間の特徴なんです。
認知的不協和理論によると、ある条件の下では
①自分のこれまでの態度に反した行動を行った場合、やがてその行動に合致する方向に態度を変化させる。
②複数の選択肢の中から1つを選択すると、選ばれた者の評価は高くなり、それ以外の選択肢の評価は低下する。
③自分がもともと興味を持っていることを実行するのを制止されると、その制止する力が強いほど対象への興味が高まる。
④ある目標を達成するために大きな努力を払った場合、そうでない場合に比べてその目標を高く評価するようになる。
このような4つの結果が予測されます。そして実際に、これらは実験によってその根拠が示されているのです。
禁煙をするなど、自分の考えを改めることにした人間がそれを周囲に勧めだすのは①ですね。
無農薬野菜や断捨離の例は②に該当するものでしょう。
ついでに言うと、③はタバコを吸ってみたいと思っている高校生の心理で、④は志望校に合格した学生の心理です。
心理的不協和に対するこうした心理傾向は、全て自分の行動の正当性を保つためのものなんです。
人間ってまったくもって自分勝手な生き物ですよね。
スポンサーリンク
認知的不協和が引き起こす「逆転現象」
私たちの日常においても、認知的不協和を低減・解消するための自己正当化は非常に多く見受けられます。
そしてその多くは後付けによるもの、つまり、行動選択とその理由が逆転しているものがほとんどなのです。
例えば、
という人の心では、
「給料が安くて辛い仕事を続けている」⇒「仕事が嫌いならここまで続けているわけがない」⇒「そうか、私はこの仕事が好きなんだ!」
という感じに、苦労や努力の正当化が行われています。
「楽しいから辛くても続けられる」ではなく、「辛くても続けているのは楽しいからだ!」と倒錯的な正当化になってしまっているのが恐ろしいですよね……。
また、
という人の心では
「わざわざフランスまでパンを食べに来た」⇒「おいしくないものにかける時間やお金はない」⇒「お金と時間を使ってこんな遠方まで買いに来たんだからおいしいに決まっている!」
という、理屈が通っているんだかいないんだか分からない、ひっくり返った正当化が行われています。
そして例えばですが、この有名店が実は世界的なチェーン店で、この人の家から徒歩十分のところに新しく日本支店を建てたとしましょう(ただ、名前は変えて)。もちろん、出している商品はフランスのものとまったく同じです。
にもかかわらず、そうと知らずに帰国後ここでパンを買ったこの人はおそらくこう言うのです。
「やっぱり、フランスで食べたパンが一番おいしかったなぁ」
時間とお金をかけた「フランスパン旅行」が無価値だったなんて思いたくありません。
それを否定するパンなど、この世にあってはならないのです。
いろいろな自己正当化
認知的不協和を解消するための自己正当化には、
・タダでもらったものよりも、高いお金を払って手に入れたものにより愛着や価値を抱く。
・キツい試練を経て手に入れたものには高い評価を下し、自身の誇らしさや自信の根拠として大事にする。
・長い時間を費やしたことには、それだけ面白味や楽しさがあったと思い込む。
といったものも挙げられます。
こうした例からは、「行動にかけた時間・努力・お金」が大きくなると、人はより一生懸命に自分を正当化しようすることが分かります。
人は取り戻せないものが大きくなるほど、その選択の正当性を高めようとするのです。
それもそうですよね。だって、その選択が間違いだったと認めれば、これまでの自分の選択や人生を否定することになってしまいますから。
また、苦労しても手に入れられなかったものに対しては、「特に欲しいものでもなかった」「きっとしょうもないものだった」と評価を下げます。
そうすることで、自分の「諦め」さえも正当化するのです。
イソップ童話の「すっぱい葡萄」ですね。
自分があきらめたことにさえ、人は妥当性を付加しようとするのです。これはフロイトが説いた、心の「防衛機制」の「合理化」にあたります。
スポンサーリンク
自分の人生くらい自分が認めてあげなくちゃ!……でも、真実を認めることも大事

認知的不協和にまつわる話は、大抵が「真実を捻じ曲げてでも自分を肯定する」という大変自分勝手なものです。
ただ、見方を変えれば「自分の人生くらい自分が肯定してあげなくては」という前向きなものとしてとらえることもできます。
まぁ確かに、「最後まで自分の味方でいてくれる人は自分だけ」ですからね。ある意味では大事にしたい心構えかもしれません。
しかし、自分の選択を肯定し続けることが得策かと言われればそうとも限りません。
先ほどの「辛くても仕事楽しい!」と言っていた彼は、確かに自分の中では幸福感を感じていたかもしれません。
しかし、周囲から見れば、「悪待遇で働かされている可哀想な人」であることもまた事実なのです。
こうした自己肯定は、行動選択とその理由とが入れ替わった倒錯的なものです。
苦労を甘んじて受け入れるための、体のいい理由でしかありません。それは現実逃避と同じです。
彼は自分が壊れてしまう前に、そこから抜け出すことも視野に入れるべきなのです。
自分の過去の選択を否定することは、確かに勇気の要ることです。
突きつけられる虚無感や自己否定に、自尊心がひどく傷つくこともあるでしょう。
しかし、意地を張ることを少しやめてみることで、よりよい未来への道が開けることもあります。
現状に少しでも不安がある人は、自分にこう問いかけてみてください。
「私の選択は、今きちんとした理由をもって輝いているのだろうか」と。
まとめ
繰り返しになりますが、「人は己の行動や選択の全てに、自分にとって都合のよい解釈を与えてしまう生き物」です。
特に、自身が大きな対価を払っている場合には、その思い込みはより一層強くなります。
そうした思い込みは、行き過ぎると「私の選択はすべて正しく、それ以外を選んだ人は全て間違っている」といったような、とんでもない自己愛と独善にまみれた考え方に進化してしまいます。
そうならないためにも、一度客観的になって自分とその周りを眺めてみることが大切です。
また、辛い現実に対する認知的不協和が、現状を何も変えることのない倒錯的な正当化を生み出してしまうことにも注意が必要です。
「俺は今幸せなんだ!そうなんだ!」と全力で思えないのなら、それは嘘です。
そこから逃げ出すことを、抜け出すことをためらわないでください。自分から悲しみの海に溺れることはないのです。
大丈夫です。昨今、逃げることは恥ではなく、むしろ役に立つことだと言いますから。
それでは、今回はこの辺で。
ではでは、またまた!
フォローする