皆さんこんにちはシロネコ書房(@shironeko_shobo)です。
テレビや新聞などで不幸な事件が報じられた時に、「何の罪もない人たちが~」みたいな言葉をよく見聞きますよね。
私たちは普段何の気なしにこうした言葉を使っていますが、よくよく考えるとこれっておかしくないですか?
だってこれ、裏を返せば「悪いことした人なら、交通事故にあおうが病気にかかろうが構わない」って言ってるようなものなんですよ。
実はそれ、案外間違いでもないんです。
私たちの心は、「善人が報われ、悪人は罰せられる世界」を理想とし、それを追求しています。
そのため、善人に幸せが訪れ、悪人に悲劇が舞い込むことを積極的に推奨するのです。
今回は、「世界は公平なんだ」と信じる人間の心に焦点を当て、その結果どのような事態が起こるかということをお話ししていきたいと思います。
先に述べておきますが、この話の終着点は「悲劇」です。
目次
この世はみんな不平等

この場を借りてはっきりと言いますが、この世は不公平に満ち溢れています。
どこを見たって理不尽なことは山ほど存在していますし、誰かの幸せは誰かの不幸へと繋がっています。
例えば、友人が宝くじで高額当選した時。
表面上では「すごい!羨ましい」と相手の幸福を祝福しても、腹の底では妬ましさや恨めしさが渦巻いている人間が大多数です。
「なんであいつだけが幸せになるんだ。私のほうが毎日努力しているのに……」
こんな風に思うのは、なにも性根の悪い人だけではありません。
逆に、例えば、手掛けていた事業が失敗して多くの借金を抱えることになった友人がいたとしましょう。
これまた表面上では、「大変だね、辛かったね、私も協力するよ」と同情しつつも、心の中では静かにほくそ笑んでいる人がいます。
「ざまぁみろ。身の丈に合わないことをするからこういうことになるんだ」と。
人の不幸は蜜の味。「泣きじゃくる友人を慰める私素敵!」と謎の悦に入る人も。
このように、世の中は不平等と不公平、そしてそれらを取り巻く人間の醜い感情で溢れています。
しかしそうした感情は「世界は公平であるべき」という考えがあるからこそ生じてしまうものなのです。
一体どういうことなのか、順番に見ていきましょう。
公平世界仮説

人の心は、世の中の理由なき不公平や不平等を認めることを嫌がります。
なぜなら、人は「公正な物語を求める生き物」であり、妥当性や正当性を欠いた幸・不幸を認めようとしないからです。
また、人の脳は「因果応報」という言葉を特に好みます。
「良い行いをすれば報われて、悪い行いをすればバチが当たる」という勧善懲悪の幻想に取りつかれているのです。
そこで、人の心は突然の幸せや不幸せに無理にでも理由づけをすることで、世界の公平性を保とうとします。
例えば
・あいつが事故にあったのは、長らくお墓参りに行ってなかったからだ
・倍率100倍のアイドルコンサートのチケットが当たったのは、私の思いが届いたからだ
・病気にかかったのは、健康を願うお守りを買うのを渋ったからだ
・大好きな彼と結ばれたのは、毎晩神様にお願いしていたからだ
等、実際には何の根拠もない理由を強引に結び付けます。
そして、「幸せが訪れたのは『良いこと】をしたからで、不幸が舞い込んだのは『悪いこと』をしたからだ」と自分を納得させているのです。
また、そうすることで、このような「善人が報われ悪人が罰せられる公平な世界」こそが世の中の正しい姿だと信じ込もうとします。
これは「公平世界仮説」と呼ばれ、人が世の中にどれだけ「安定」や「公平性」といったものを求めているかが伺える現象です。
「公平世界仮説」の好作用
好作用その1:社会秩序の保持
「公平世界仮説」の中で語られるのは、「善人が報われ、悪人が罰せられる勧善懲悪の世界」です。
そこでは、努力や苦労は幸せに至る道として機能するため、人々は皆それを行うことを良しとして行動します。
つまり、「公平世界仮説」には「善行を促進する」という好作用があるのです。
良いことをすれば幸せに、悪いことをすれば不幸に直結するという単純明快な考え方ですから、人々が皆「公平世界仮説」に基づいて意思決定を行い、行動するというのは、それだけで社会の秩序の保持へとつながります。
好作用その2:未来思考性の向上
「公平世界仮説」を信じる人は未来への志向性(将来の目標や成果に向かって努力する傾向)が高いと言われています。
「公平世界仮説」を信じるということは、努力や苦労が報われると信じることですから、地道に勉強したり、辛い下積み時代を過ごすことにきちんと意味を見いだせるという訳ですね。
しかし反対に、「世の中は不平等だ」と思いがちな人は「どうせ俺なんて何やっても駄目だよ……」と行動を起こす前から諦めてしまう傾向があります。
努力は必ず報われるものではありませんが、その過程で何かしら身につくことがあるのは間違いありません。
世の中を悲観視しすぎても、それは自分で自分を縛り付け、身動きを取れなくしてしまうだけなのです。
「公平世界仮説」の悪作用
「公平世界仮説」において語られる世界においては、「善人には幸福が訪れ、悪人には不幸が訪れる」という基準が絶対的に存在しています。
しかし裏を返せば、それは「善人に不幸が訪れてはならず、悪人に幸せが訪れてはならない」ということでもあるのです。
そしてこの考えが、私たちに認知に大きな歪みをもたらす原因となっています。
悪作用その1:被害者非難
まずは「善人に不幸が訪れる」場合です。
「公平世界仮説」において、善人とは、努力と苦労を重ねた幸せになるべき人間です。
しかし、本当に偶然、その人が不慮の事故にあってしまったとしたらどうでしょう。
多くの人は、このように被害者の方を気の毒に思うでしょう。
しかし信じられないことに、次の瞬間には、被害者が事故にあったのには自業自得な部分がきっとあると、彼らの落ち度を探し始めるのです。
なぜなら、「善人が不幸に会うことなど、この『公平な世界』にはあってはならない」と多くの人が考えているからです。
「きっとぼーっとしていたのだろう」という根拠のない憶測から、最後には「前世で悪い行いをしたんだよ、きっと」というもはや言いがかりとも言えない理由のこじつけによって、無理やりにでも不幸を当人の責任へと帰着させようとします。
もし仮に、被害者に隠れた落ち度(例えば歩きスマホをしていた等)があったことが発覚しようものなら、嬉々としてそれに飛びつき、最後には被害者側を一方的に非難することだってあり得ます。
そうした「あら捜し」によって、「世界は公平である。故に不運は善人には訪れない」という考えを維持しようとするのです。
たとえそれが、被害者を不当に非難することになったとしてもお構いなしに、彼らは「公平な世界」を守ろうと努めます。
こうした現象は、心理学用語で「被害者非難」と呼ばれ、たびたび差別の原因にもなっています。
身近なところで言えば
・あんなに短いスカートをはいていたら、痴漢にあうのも仕方ない。
・普段あんなに威張っているから、泥棒になんて入られるんだ。
・夜中に出歩いてなんかいるから襲われるんだ。
・ぼんやり歩いてなんかいるから、車に轢かれるんだ
・あの子がいじめられているのは、いつも本ばっかり読んで協調性がないからだ
こうした事例が挙げられるかと思います。
いずれも、結果とは直接的に関係のない理由がこじつけられていますね。
最後のなんて、そもそもいじめていい理由があるって前提がおかしいですから!
しかし皆さん、テレビのニュースや報道を見ていて、こういう風に思ったことが一度や二度あったりしませんか。
恥ずかしながら、私はあります。
それだけ、被害者非難は私たちの身の回りに溢れているという訳です。
私たちは、夢の中の「公平な世界」を守るために、そこに矛盾を生み出すような例外を認めようとしません。
たとえそれが他人の尊厳を踏みにじることでも、理不尽な手段を用いようとも、、力づくでそれを排除しようとします。
「悪人が地獄に落ちるのではない。地獄に落ちる者が悪人なのだ」と、そう信じることで、自分たちの平和は守られたと安堵するわけです。
しかし実態を考えれば、それは「世界は公平なんだ」という思いを信じるためだけの、いわば幻想の世界を守るための闘いでしかないのです。
全くもって、恐ろしいことですよね。
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悪作用その2:他人の幸福への恨み・嫉妬心
次は、「悪人に幸せが訪れる場合」です。
また悪人までいかずとも、主観において「不相応な幸福が訪れた人」に対して、人は不公平感や妬ましさを抱きます。
悪人……というと抽象的なので、ここでは「前科持ちの友人」を想定して話を進めていきます。
ちなみに前科と言っても、万引きくらいのものです(いやいや万引きは重罪ですが!)。
さて、早速ですが、以下のような場面を想像してください。
『一緒に歩いていた友人がたまたま、道端で1000円札を拾った』
これくらいなら「こいつ今日の占いで金運MAXだったって言ってたし、神様からのちょっとしたプレゼントだな」と、友人に故なき幸福が舞い降りたとしても、あなたは自分自身を納得させられます。
「公平世界仮説」によって、あなたは無理にでも「友人に幸福が訪れた理由」をこじつけたのです。
しかし、
『一緒に歩いていた友人がたまたま拾った宝くじが1等の10億円に当選した』
となった場合はどうでしょう。
ここまで大きな幸せが他人に舞い込むと、心はもうそれを正当化する手段を持ちえません。
1000円札を拾った時でさえ無理やりな理由付けだったのです。
10億円、しかも偶然拾った、たった一枚の宝くじから。
これを「占いで金運Maxだったから」で正当化することはどう考えても不可能です。
もはや、この幸運は「友人が手にしてもいい妥当な」幸運を明らかに凌駕しています。
だって、彼には前科がありますから。「どうして罪を1度も犯していない私ではなく、前科持ちのこいつが!」と心は納得が出来ません
友人のこの幸福は、「公平な世界」の基準に明らかに反する。そう思った時、人は大きな嫉妬と不平等感に苛まれます。
世の中は平等で公平であるはずなのに、なぜこんなことが起こるのだろうと世の不平を嘆きます。
そしてその感情は負のオーラをまとい、嫉妬や恨み、妬みなどとなって現れるのです。
これが、「不相応な幸福を手にした人」に対して、公平さを求める心が生じさせる悪作用です。
…あれ?「なんだ、その程度のことか」って思われてません?
いやいやいやいや、侮るなかれ!時には、これが原因となって大きな事件を引きおこされることもあり得るのです。
例えば、恋愛のもつれから起こるこんなケースを想定してみましょう。
A子ちゃんは好きな男の子がいたのですが、クラスでも眼中になかった地味目なB子に取られてしまいました。
「私のほうが全然かわいいのに、なんであんな子が!」とA子ちゃんは嫉妬と妬みで一杯です。
次の日から、A子ちゃんはB子ちゃんに嫌がらせを始めました。
「あんたに彼はふさわしくない。不相応な幸せだよ」という思いを込めて、彼と別れさせようとしたのです。
しかし、その嫌がらせに心を病んだB子ちゃんは学校を休みがちになり、とうとう自分の部屋で命を絶ってしまいました。
これは、「公平世界仮説」によって生まれた妬みによる悲劇の一例です。
「世界は公平に、このようにあるべきだ」という思いから生まれた嫉妬心が、人の命を奪うまでに膨れ上がってしまった結果です。
人の恨みや妬みというものは、決して馬鹿にできるものではないのです。
この傾向は、「世界は公平で平等だ」と強く信じている人ほど強くなります。
こうした人は、抜きんでた幸せを手に入れようとする人の足を必死に引っ張ることで、「公正な世界」を無理やりに維持しようとします。
「出る杭を打つ」とは、まさにこの「公平世界仮説」から生まれた言葉と言えましょう。
「公平な世界」を保つために、みんなが互いの幸福を妬み、足を引っ張り合う世界が今の世の中です。
「公平や平等」という響きは聞こえがいいですが、それを強制する世の中は、果たして幸せな場所と言えるのでしょうか
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「世の中は不公平だ」と思うのは後ろ向きなことではない

不公平感からくる負の感情緩和するには、「世の中は不公平で不平等なんだ」と開き直ってしまうのが手っ取り早いでしょう。
初めからそう思っていれば、たとえ理不尽な不幸や失敗が襲い掛かってきても心がパンクしてしまうことはないはずですからね。
しかしこんなことを言われると、
と叫びたくなる気持ちもあるかと思います。
しかしよく考えてくだい。
大事なのは、人生における突然の幸せ、不幸せにどう対応してその先を生きていくかを冷静に考えることです。
不慮の交通事故にあって両足を失って、しかしその後パラリンピックで優勝する人がいます。
宝くじで1億円当たって、しかしその後お金に振り回されて身を亡ぼす人がいます。
幸せは、その先へと繋げなければ一時の甘い蜜にすぎません。逆に不幸は、それを乗り越えれば幸福に転じることもあり得ます。
どんな幸運が舞い込んでも、どんな不幸が降りかかっても、人生はその先も続くのです。
【併せて読みたい】

「世の中は不公平だ。でも、だからこそやりがいがある」
そこまで思えれば、あなたの人生もきっといいものになるでしょう。
まとめ
「公平世界仮説」をもう一度まとめてみると
・「勧善懲悪」を軸として世界は公平であるべきだと信じること。これを深く信じる者は、あらゆる物事を「公正な世界」が保たれるように捻じ曲げて解釈してしまう。
メリット
- 社会秩序が保たれる。
- 未来に目標をもって行動できるようになる
デメリット
- 被害者非難が発生する
- 不公平感から妬みや恨みが生まれる
このようになるでしょうか。
「公平な世界」とは、実在しえない幻の理想郷です。
そこを必死に守ろうとすることは、時に誰かを気付つけたり、妬みや恨みなどの負の感情を吹き出してしまうことにもつながります。
目指すべき世界として設定するのは個人の自由ですが、時には冷静になって、不公平な現実と向き合うことも大事ではないかなと私は思います。
以下は、本編があまりに長くなってしまったため1度削った余談みたいなものです。
「やっぱり書き残しておきたい!」と思ったため、ここに加えさせていただきました。
お時間あれば、読んでいただけると嬉しいです。
昨今、何か事件があった時、マスコミは被害者についての情報も多く世間に公開します。
もちろん、被害者も人間ですから、人に知られたくないことも多くあるでしょう。
しかしマスコミは、そういう情報も根掘り葉掘りです。
そしてそこからは、被害者非難の「種」が本当に見つかり易い。
なんたって、「前世の行い」すら持ってくるほどですからね(笑)もう何でもいいんですよ。
そうして行われる不当な非難は、被害者の心に大きな傷をつけてしまいます。
しかし彼らは、被害者非難によって、その他多くの人々が「世界は公平なんだ」と信じ続けるための生贄ではないのです。
マスコミにはそういうことを踏まえて取材を行って欲しいと思うのと同時に、みなさんもぜひ、この記事で学んだことを踏まえて今後ニュース番組等を見ていただければなと思います。
まじめなお話をしてしまったところで、今回はここまで。
余談まで読んでくださった方、ありがとうございました!
それでは、またまた!
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