皆さんこんにちは、シロネコ書房(@shironeko_shobo)です。
いやぁもう、最近の若者は情けない!
会社の飲み会には来ない。休日は部屋から出もしない。良いスーツや高級時計も買わなければ、車も持たないし、たばこも酒もやらない。ギャンブルにも手を出さない。恋愛に興味のない奴なんてのもいるらしい。
協調性のかけらもなく、「一人が好き」なんて言うやつらばかり。
これがゆとり世代か……こいつら何が楽しくて生きてるんだ?あー嘆かわしい!いったい日本の未来はどうなってしまうんだ!
…………と嘆くおじさま、おばさま方、ちょっと待ってください。
今の若者たちが、こうした「孤立した」考え方をするようになってしまったのにはきちんとした理由があります。
それは「世の中にたくさんの考え方とモノが溢れてしまったから」なのです。
一体どういうことか、順を追って説明していきますね。
目次
若者たちが孤立した理由

「みんなが同じだった昔」と「みんな違う今」
これまでの日本では、人々は比較的同じような価値観をもって生活を営んでいました。
分かりやすいもので言えば、「女は家で、男は仕事」みたいなものがその一つに挙げられます。今なお根強く残る価値観でもありますね。
もっと細かく言えば……
一般的な男性なら、「学校を卒業し、会社に勤めて、ゴルフをして、酒とたばこを嗜み、結婚して、子供を育て、家と車を買って、定年まで働いて、老後は静かに暮らす」みたいな人生観。
女性なら、「学校を卒業したら、(会社に勤めても)早いうちに他の家に嫁ぎ、専ら家事に勤しむ。料理、洗濯、掃除に精を出し、子供が出来たら育児に専念する。夫と子供たちのために家を守ることが使命」といったものになるでしょうか。
これが、当時、広く共通して認識されていた人生に対する価値観です(あくまでもイメージですが。)
今これを大声で言うと、どこからともなく「偏見だ!差別だ!」という叫び声が飛んできちゃいますけどね……特に女性側からは。
しかし、当時は大半の人がこの価値観に沿った生活を送っていたのです。
現在に生きる人々からすると「なんて型嵌りで自由のない、紋切り型の人生だろう」と思われる価値観かもしれません。
しかし、当時の「みんながみんな同じ考え方をしている世の中」には、それゆえの一体感が存在し、「みんなが同じ場所を目指して頑張る」という共通の幸福論がありました。
「これが正しい!これが普通!これが幸せ!」がハッキリしていた世の中は、ある意味で、とても分かりやすく完成されていたとも言えるのです。
類似性の法則
人間は、自分と同じ好みや価値観を持っている人間に対して好意を抱く生き物です。
なぜなら、他人が自分と同じ考えを持つということは、すなわち自分の考え方が正しいという一つの証明になり、それが各々の自尊心を保たせてくれるからです。
これを、心理学用語で「類似性の法則」と言います。
※「類似性の法則」についてもっと知りたい方はこちら!

この法則に沿って考えれば、昔の「みんながみんな自分と同じ考え方を持つ世の中」は、誰もが強い自己肯定感に後押しされる、自信に満ちあふれた生活を送れる場所でもあったのです。
密な一体感は、当時の人たちにとって大きな力となっていたのでしょう。
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現代の人々の価値観 ーオリジナルな人生観ー
しかし、今は状況が異なります。
現代では、様々な思想や考え方がインターネットを通じて広まり、また、個人が多くの情報や、モノ、仕事等を手に入れることが出来るようになりました。
つまり、個人が己の人生に多くの選択肢を持つことが可能になったのです。
より具体的に言えば、「趣味」「食べ物「ライフスタイル」「好み」「価値観」などの各項目から、己の生き方や人生観にそった選択肢を自由に選び取ることが出来るようになったということです。
「その人が、その人らしく、個性あるオリジナルな生活を送れる時代になった」とも言えましょう。
昔のような、
という判を押したような生き方だけでなく、例えば、
という生き方を選べるようなった、と考えれば「多様性のある社会いいじゃん!」って感じですよね。
ただ、「オリジナルな自分になる」ことは「他人と違う自分になる」ことでもあります。
先ほど紹介した「類似性の法則」に則れば、自分と同じ価値観や考え方を持つ人間は自分を肯定してくれる存在であり、それゆえに人は好意を抱きます。
しかし反対に、自分と違う考え方をする人は自分を否定する存在として認識し、それゆえに人は嫌悪感や距離感を感じてしまうのです。
※「類似性の法則」についてもっと(ry

そう、個人のオリジナル度を高められる社会は、互いを否定しあう社会でもあったのです。
価値観のすり合わせ
しかしそうはいっても、人は一人では生きていけません。
日々の生活を円滑に進めるために、嫌でも他人と関わり合わなければならない場面が必ず存在するのです。
そのためには、相手とコミュニケーションをはかる中で、お互いの価値観をすり合わせて、妥協点をうまく見つけて行く必要があります。
ただ、その過程が昔と今では段違いに難しくなっているのです。
昔のように、みんながみんな同じような価値観を共有し、同じようなライフスタイルを送っていた頃なら、そのすり合わせもそれほど苦ではなかったでしょう。
ちょーっと調節すれば、お互いが少しずつ慢する程度で済んだのです。
差異そのものが少なかったですからね。すり合わせるものの数も、そこから生まれる苦労も多くはありませんでした。
それが今では、みんながみんな己の価値観にこだわりを持ちすぎているものだから、まともにぶつかったら互いに無事ではすみません。
「それには賛成できないな」「私はそうは思わない」「ふざけるなこのやろぉ!」
尖りあったオリジナリティーは、互いをボロボロに傷つけあっていきます。
それを回避できたとしても、「じゃあ深いかかわりあいはやめよう」と開き直った心は、次に上辺だけの付き合いを助長させていきます。
そんな、親しい友人を作ることさえ難しい世界で彼らは生きているのです。
このような事態を、現代の若者は幼いころから経験しています。
そしてそれは、人間の発達段階において重要な、アイデンティティー(自己同一性)の確立をもたらす青年期にも及んでいるのです。
ヤマアラシのジレンマ
青年期特有の「相手との一体感を感じたいけれど、自分らしさも持っていたい!」という葛藤を表すお話として「ヤマアラシのジレンマ」というものがあります。
学生の頃、倫理の教科書か何かで見た覚えがあるという人も多いのではないでしょうか。
このお話、もともとはショーペンハウエルというドイツの哲学者が書いた寓話がその発端とされ、その後、フロイトが自身の精神分析論文に引用したことで有名になったと言われています。
知らない、忘れてしまった人たちのために、一度その内容を確認してみましょう。
ヤマアラシのジレンマ
寒空の下、二匹のヤマアラシは互いに温め合おうとくっつくが、お互いの針が刺さってとても痛い。
しかし離れすぎるとまた寒さに凍えてしまう。
そのジレンマの中、二匹は何度も試行錯誤を繰り返すことで、互いの針が刺さらず、かつ暖かい距離感をどうにか見つけることが出来た。
この二匹のヤマアラシのように、青年が友人との心理的な距離をめぐりって、「近づきたいけれど、近づきすぎると互いを傷つけてしまう」、「自分らしくありたいけれど、そのために人と離れすぎると寂しい」という心を双極に、人間関係の「適度な距離感」を模索して生じる葛藤を「ヤマアラシのジレンマ」と呼ぶ。
付かず離れずの、若者の不安定な心理状態をうまく表したお話ですよね。
青年期におけるこの「ヤマアラシのジレンマ」を通して、若者たちは、他人との心の距離のはかり方や、その中での自分の役割、アイデンティティーといったものを身に着けていくのです。
しかし、それが滞りなくうまくいっていたのも一昔前の話。
今の若者たちは、拡散する価値観に振り回され、周囲とのすり合わせに疲労困憊……。尖りあったオリジナリティーを持ち寄って、互いの心をすり減らしてます。
他人との関わり合い方を学ぶこの大事な時期に、お互いを否定しあうような体験を数多く経験してしまう訳ですからね。人付き合いそのものに希望を見失ってしまう人たちも数多くいるでしょう。
そして、同年代同士でさえそのような事態なのに、さらに、会社の上司や先輩など、上の世代の人たちからは「昔の凝り固まった価値観」を未だ振りかざされ、「まったく今の若者は……」「俺たちの時代じゃあ考えられない……」と己の価値観を否定されます。
簡単にまとめてしまえば、「自分が属する『横』の年代とは分かり合えず、『上』の年代からは自分を否定される」という状況に彼らはいる……と言えるでしょう。
図にするとこんな感じです。

こうなると、どうなるか。
こんな風に、誰とも分かり合えない虚無感に、対人関係をあきらめてしまう若者が現れてくるのです。
そして、もうこれ以上傷つきたくない、自分を否定されたくないと思う心は、できるだけ人との付き合いを避け、最小限にとどめようとします。
そんな彼らからしたら、会社の飲み会や社員旅行なんて無駄でしかありません。
「どうせ分かり合えっこない、自分とは価値観も好みも違う人たちと一緒に飲んだって楽しくない。」
「上司や先輩は、自分達の価値観を押し付けるような話し方をするし……。趣味の話なんてしても『なんだそれ(笑)』と笑って否定されるだけ。『あなたとは話が合わない』なんて言えっこないし……。」
こんな風にしか思えないものに、どんな期待を込めればいいというのでしょうか。
さらに、悲劇は続きます。
本当に分かり合える友達も見つからないからないから、どこかに遊びに行く機会もそれほど多くありません。
だから車も買わなくなるし、何か用がない限りは外にも出なくなります。
恋愛の話になればもっとキツイ。「異性のことなんて余計に分からないし、友達以上に深い関係になんてなれっこない。いつか針が深く刺さって破滅するだけ」そう思ってしまうのです。
そして、若者の恋愛離れが叫ばれて、結婚する人も減り、少子化が進んでいく……。悲しいことですよね。
(まぁ、結婚に関して言えば他にも理由はあるんですけど……。)
※結婚しない人が増えた理由についてはこちら

会社の飲み会を嫌い、車も時計も買わない、上の年代の人たちからしたら何が楽しくて生きているの分からない今の若者は、このようして出来上がっていきます。
多くの若者達が、誰とも傷つけ合わない代わりに、寒く、孤独なヤマアラシになる選択を選んでいるのです。
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彼等は本当に孤独なのか

周囲との関係を絶った彼らは、しかし、本当に孤立してしまっているのでしょうか。
答えは「NO」です。
確かに、個人のオリジナル度が高まったことで、若者たちの「深い人間関係」の数は少なくなりました。
しかし、彼らは彼らで自分と気の合う友人を見つけています。
その場所は、専ら「インターネット」。
今では様々なアプリやSNSのサービスが普及し、日本中、世界中から自分と気の合う仲間を探すことができます。
ただ傍から見ると、その様子は「パソコンのある部屋にずっとこもっていたり、常にスマートフォンをのぞき込んでいる根暗なやつだ」と誤解されやすいものでもあります。
気の合う仲間に連絡が取りたくて、会社から早く帰りたい!仕事後の飲み会なんていきたくない!と思っている人に対して、よく思わない人もいるでしょう。
しかし、彼らは彼らでしっかりと他人と関わろうとする姿勢を示しているのです。
この、万人が万人に対して自分の針を向け続けるような世界で、それでも寄り添うことのできる人を探し求めているのです。
それを頭ごなしに否定することは、彼らにとってあまりに酷なことではないでしょうか。
まとめ
車も高級時計も買わず、恋愛にも消極的で家に引きこもりがち……。
現代の若者たちが、そんな孤立したような人間関係を築く背景には、人生における多くの選択肢と、価値観の多様性が認められた世界の存在があります。
「個人のオリジナリティーが尊重される世界」は、一見すると素晴らしいもののように思えます。
しかし、それは互いに互いの考え方を否定しあう世界でもあり、逆に人々の間の溝を深めるものでもあったのです。
今や、社会全体を覆っていた一つのマクロな価値観よりも、個々人がもつミクロな価値観を人々は尊重するようになってきています。
このような価値観が拡散した世の中では、「人は皆分かり合えない」とあきらめてドライな人間関係のみを構築するか、「そんな生き方もあるのか」と、他人の価値観を積極的に理解しようと努めるかのどちらかの道を各々が選択する必要があります。
そして願わくば、私は後者を選ぶ人がこれから増えてくれればいいなと、そう思っています。
荒野で誰に見せるでもない棘を磨きながら一人で寒さを嘆くのは、なんだかとても寂しい気がしますから。
それでは、今回はこの辺で。
ではでは、またまたー!
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